精神的偏差(入魔)を克服する1カ月前から、私はT先生の教室に通うようになっていました。
2006年7月のことです。
身体的偏差だけは、誰かの助けが必要だと感じ、
最後はここしかないと、T先生のいらっしゃる、気功文化研究所の門を叩きました。
T先生の気功教室は、毎週木曜日にありました。
中国の先生と同じように、最初、理論や最先端の情報を聞く時間があり、
その後、練功が始まります。
当時は中国から新しい健身気功が入ってきたのですが、T先生は伝統的な気功を教えておられました。
練功中、T先生はほとんど話されません。
某NPO法人の指導者のように、言葉による誘導は一切ありません。
気功指導者が気功学生と一緒に練功することで、
「もっとも大切なことは、気(エネルギー)で伝えるのです。それを帯功(たいこう)と言います」
と、教わりました。
練功中、安全が確保された静かな部屋で体験に没頭しながら、これまでの練功とは違う体感を感じていました。
。
不思議なことに気功の時間が終わっても、それまでのように、ダレダレにゆるみっぱなしということがなくなりました。
どこか心地よい緊張を感じて、「これは何だろう?」と思っていました。
そうして、T先生のところに通い始めて11か月が経とうとした時、その心地よい緊張が、放鬆(ファンソン)ということを頭で理解したのです。
その時、放鬆(ファンソン)は自ら構築しなければいけないことに気づきました。
放鬆(ファンソン)は、言葉で説明するのはとても難しい。
某NPO法人の指導者は、言葉で「ゆるんで下さい。ゆるんで下さい。」を何度も何度も繰り返し言いました。
ゆるんでしまうことは、力をなくすことと同じなのです。
本当は、自分自身で体の「し過ぎている緊張」を解いていくのです。
余分な緊張を「ゆるめていく」ことによって、放鬆(ファンソン)を構築していくことが出来ます。
ゆるむは力がない状態、つまり意識が働かない状態。
ゆるめるは、意識がある。意識を使うことが出来る状態。
気功は意識を働かせなければ、気功にはなりません。
体の余分な力は抜けているけれど、意識を使うことが出来る状態。
プラスとマイナスが引き合って、ゼロになっている状態。
言葉で表現すると、こんな感じになるでしょうか。
体が放鬆(ファンソン)を覚え、それを頭で理解できたその日、
脱ぎっぱなしになっていた、私の社会的身体(ヨロイ)が戻ってきました。
社会的身体をヨロイと名付けた人は、すごいと思いました。
瞬間に、「ドン!」と戻ってきたヨロイは、鎧のようにとても重かったのです。
体に20キロ近くの鎧を着込んだような感じで、ヨロイが戻ってきてもすぐに体になじまず、
ロボットのような動きをしていました。
数時間後、ヨロイは体になじみ、ようやく元の体に戻ることが出来ました。
2005年12月に自分が偏差にかかったことを認め、再生への道を歩き出して1年半。
私は、奇跡的にも精神的、身体的2つの偏差を見事に克服することができました。
2006年7月のことです。
身体的偏差だけは、誰かの助けが必要だと感じ、
最後はここしかないと、T先生のいらっしゃる、気功文化研究所の門を叩きました。
T先生の気功教室は、毎週木曜日にありました。
中国の先生と同じように、最初、理論や最先端の情報を聞く時間があり、
その後、練功が始まります。
当時は中国から新しい健身気功が入ってきたのですが、T先生は伝統的な気功を教えておられました。
練功中、T先生はほとんど話されません。
某NPO法人の指導者のように、言葉による誘導は一切ありません。
気功指導者が気功学生と一緒に練功することで、
「もっとも大切なことは、気(エネルギー)で伝えるのです。それを帯功(たいこう)と言います」
と、教わりました。
練功中、安全が確保された静かな部屋で体験に没頭しながら、これまでの練功とは違う体感を感じていました。
。
不思議なことに気功の時間が終わっても、それまでのように、ダレダレにゆるみっぱなしということがなくなりました。
どこか心地よい緊張を感じて、「これは何だろう?」と思っていました。
そうして、T先生のところに通い始めて11か月が経とうとした時、その心地よい緊張が、放鬆(ファンソン)ということを頭で理解したのです。
その時、放鬆(ファンソン)は自ら構築しなければいけないことに気づきました。
放鬆(ファンソン)は、言葉で説明するのはとても難しい。
某NPO法人の指導者は、言葉で「ゆるんで下さい。ゆるんで下さい。」を何度も何度も繰り返し言いました。
ゆるんでしまうことは、力をなくすことと同じなのです。
本当は、自分自身で体の「し過ぎている緊張」を解いていくのです。
余分な緊張を「ゆるめていく」ことによって、放鬆(ファンソン)を構築していくことが出来ます。
ゆるむは力がない状態、つまり意識が働かない状態。
ゆるめるは、意識がある。意識を使うことが出来る状態。
気功は意識を働かせなければ、気功にはなりません。
体の余分な力は抜けているけれど、意識を使うことが出来る状態。
プラスとマイナスが引き合って、ゼロになっている状態。
言葉で表現すると、こんな感じになるでしょうか。
体が放鬆(ファンソン)を覚え、それを頭で理解できたその日、
脱ぎっぱなしになっていた、私の社会的身体(ヨロイ)が戻ってきました。
社会的身体をヨロイと名付けた人は、すごいと思いました。
瞬間に、「ドン!」と戻ってきたヨロイは、鎧のようにとても重かったのです。
体に20キロ近くの鎧を着込んだような感じで、ヨロイが戻ってきてもすぐに体になじまず、
ロボットのような動きをしていました。
数時間後、ヨロイは体になじみ、ようやく元の体に戻ることが出来ました。
2005年12月に自分が偏差にかかったことを認め、再生への道を歩き出して1年半。
私は、奇跡的にも精神的、身体的2つの偏差を見事に克服することができました。
- 関連記事
-
- 偏差編 ~最後に~ (2023/01/10)
- 偏差克服への道 ⑥ 身体的偏差の克服は、ファンソンを体が覚えること (2023/01/08)
- 偏差克服への道 ⑤ 精神的偏差(入魔)が消えた日 (2023/01/06)
スポンサーリンク
最終更新日 : 2023-01-08