自分の心と体が健康になるために、お金を出して習ってきた気功で、
自分が偏差にかかり、心身ともボロボロになり、廃人同様になったことを認められなかった。
そんな私に転機が訪れようとしていました。
2005年12月、私はT先生からミクシィの招待状を貰いました。
ミクシィがまだ招待制の時代でした。
最初はT先生の日記を読むぐらいの気持ちでいました。
日が経つにつれて、この先生の元でなら出来るかもしれない。
ミクシィという閉鎖空間であるなら、心の閉関(※)ができるかもしれない。
私は、自分が偏差にかかったことを、ここでようやく認め、
そして、「日本の気功界はこのままで良いのか!」という第一声とともに、心の膿出しを始めました。
心の膿出しは、気功の世界で体験した、苦しい心理的体験を解き明かしていくという心の閉関のことです。
心の閉関をしていくうちに、ある能力が出てきました。
それはまるで、これから狂っていくかもしれない私を「わたし」自らが助けるために、内側から引き出してきた能力としか言えないものでした。
心の閉関の中で、私は自分の間違いを認めていく勇気に目覚めました。
自分の間違いを認める勇気が出てくると、全てのことをありのままに観察する心の目が養われていきました。
そして苦しみの最中にいる時(そうでない時は、自分を苦しめているものを自らの意志で再現させました)、自分自身に現れる心の変化(心理的体験)、体の変化、わずかな変化も見逃さないで、ありのまま観察し、ありのまま感じ取ったものを克明に記録していきました。
ただ、書いた内容について、一切の判断を入れないというルールを設けました。
この作業が、功を奏しました。
書いていくうちに、だんだん偏差になった原因がわかってきたのでした。
それは、これまでに書いてきたように誤った指導法に問題があったということを。
そして、書くという 「アウトプット」 をしていく過程で、心理学の素養が自然についたのでした。
T先生は、私が書いた日々の内容を黙って見て下さっていました。
ただ・・・1度だけコメントがついたことがありました。
そのコメントは、
「貴女は、不信の停止という理論を身につけなければ、気功を学びながら気功から身を守ることはできません」
ここまで読んで下さった読者のみなさまは、もうおわかりかと思います。
気功を習う気功学生は、気功を学びながら、同時に自分の身を守る術を身につけなければ、私のように偏差になってどうしようもなくなってしまうのです。
気功を習う全ての人が偏差になるわけではありません。
私と同じように偏差にかかった人のほとんどが、年齢が若かったという共通点があります。
気功や太極拳を始める方は、年配の方が多いと思われます。
筋力も大分落ちて来て、そんな自分の健康のために無理なくできるものとして、気功や太極拳を選ぶ人もきっと多いでしょう。
そして、それは幸いなことに、その方たちは偏差にかかりにくいのです。
その理由は、人間は歳を重ねるごとに観念(自分の考え)も強固になってきます。
観念が強い人は疑う力が強く、気功の先生の話をあまり真剣に聞いていません。
聞き流しているような感じでした。
それに比べて若い人は、気功の先生の話を全て受け入れてしまう。
ここに問題があるのです。
次回は、気功を学びながら気功から自分の身を守れる 『不信の停止』 について書きたいと思います。
(※)【閉関】とは、自分自身を騒がしい世間から静かな場所に隔離して(スマホやテレビ、新聞などの情報を絶って)、ある一定の期間、自分の心を内側を静かに見つめていくという形なき気功法のこと。それによって、疲れ切った心身が蘇ると言われています。
自分が偏差にかかり、心身ともボロボロになり、廃人同様になったことを認められなかった。
そんな私に転機が訪れようとしていました。
2005年12月、私はT先生からミクシィの招待状を貰いました。
ミクシィがまだ招待制の時代でした。
最初はT先生の日記を読むぐらいの気持ちでいました。
日が経つにつれて、この先生の元でなら出来るかもしれない。
ミクシィという閉鎖空間であるなら、心の閉関(※)ができるかもしれない。
私は、自分が偏差にかかったことを、ここでようやく認め、
そして、「日本の気功界はこのままで良いのか!」という第一声とともに、心の膿出しを始めました。
心の膿出しは、気功の世界で体験した、苦しい心理的体験を解き明かしていくという心の閉関のことです。
心の閉関をしていくうちに、ある能力が出てきました。
それはまるで、これから狂っていくかもしれない私を「わたし」自らが助けるために、内側から引き出してきた能力としか言えないものでした。
心の閉関の中で、私は自分の間違いを認めていく勇気に目覚めました。
自分の間違いを認める勇気が出てくると、全てのことをありのままに観察する心の目が養われていきました。
そして苦しみの最中にいる時(そうでない時は、自分を苦しめているものを自らの意志で再現させました)、自分自身に現れる心の変化(心理的体験)、体の変化、わずかな変化も見逃さないで、ありのまま観察し、ありのまま感じ取ったものを克明に記録していきました。
ただ、書いた内容について、一切の判断を入れないというルールを設けました。
この作業が、功を奏しました。
書いていくうちに、だんだん偏差になった原因がわかってきたのでした。
それは、これまでに書いてきたように誤った指導法に問題があったということを。
そして、書くという 「アウトプット」 をしていく過程で、心理学の素養が自然についたのでした。
T先生は、私が書いた日々の内容を黙って見て下さっていました。
ただ・・・1度だけコメントがついたことがありました。
そのコメントは、
「貴女は、不信の停止という理論を身につけなければ、気功を学びながら気功から身を守ることはできません」
ここまで読んで下さった読者のみなさまは、もうおわかりかと思います。
気功を習う気功学生は、気功を学びながら、同時に自分の身を守る術を身につけなければ、私のように偏差になってどうしようもなくなってしまうのです。
気功を習う全ての人が偏差になるわけではありません。
私と同じように偏差にかかった人のほとんどが、年齢が若かったという共通点があります。
気功や太極拳を始める方は、年配の方が多いと思われます。
筋力も大分落ちて来て、そんな自分の健康のために無理なくできるものとして、気功や太極拳を選ぶ人もきっと多いでしょう。
そして、それは幸いなことに、その方たちは偏差にかかりにくいのです。
その理由は、人間は歳を重ねるごとに観念(自分の考え)も強固になってきます。
観念が強い人は疑う力が強く、気功の先生の話をあまり真剣に聞いていません。
聞き流しているような感じでした。
それに比べて若い人は、気功の先生の話を全て受け入れてしまう。
ここに問題があるのです。
次回は、気功を学びながら気功から自分の身を守れる 『不信の停止』 について書きたいと思います。
(※)【閉関】とは、自分自身を騒がしい世間から静かな場所に隔離して(スマホやテレビ、新聞などの情報を絶って)、ある一定の期間、自分の心を内側を静かに見つめていくという形なき気功法のこと。それによって、疲れ切った心身が蘇ると言われています。
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最終更新日 : 2022-12-29