当時の気功界は、1つ大きな問題を抱えていました。
『気感のない気功は気功ではない』 と言われているにも関わらず、
会員さん、生徒さんに、気感が出てこないことが問題でした。
どうしたら、気がわかるようになるのか。
それで、ある人が1つのスタイルを考えだしたのです。
(このある人というのが、某NPO法人の代表であり、講師として気功を教えていました)
それは、言葉で人を誘導し、「体をゆるめる」という方法でした。
言葉で誘導されて体がゆるんでしまった私はどういう状態になってしまったのかといいますと、
それに近いものが、朝起きて、まだボーっとしている時の状態です。
気功の要は6つあります。
放鬆(ファンソン)-入静(にゅうせい)-定力(じょうりき)-虚-空-無 です。
そして、気功の入口となる放鬆(ファンソン)は、人の誘導でなされるものではなくて、自ら構築していかなければいけないものだったのです。
その某NPO法人の気功の講座には、多くの気功の先生が参加していました。
そして、誘導で体がゆるめられるという体験をして、その心地良さを味わって、私がいつも通っていた気功の先生は、この指導法を取り入れたのでした。
私はこの方法を、半催眠誘導と名付けましたが、この方法でゆるめられると、
気功の時間が終わっても、元の体の状態に戻らないのです。
また、気功の先生も、会員さんの様子をよく見ずに帰してしまうのです。
会員さんは、気功の時間、自分の心と体を気功の先生に預けています。
しかし、指導する側にその意識がないこと、責任を感じていないことが大きな問題でした。
ボーっとした状態で、日常の中に返ることがどれだけ危険かを、私の先生は知らないようでした。
そして、それが何度も何度も繰り返されることによって、体が元に戻らなくなりました。
私たちの体には2つの気があります。
営気(えいき)といって、体の中を流れる気と、
衛気(えき)といって、人体と環境の間にあって、外界からの衝撃を受け止めるクッションの役割をしている気です。こちらは、普通 「オーラ」 と呼ばれています。
気功をすることで、自分の衛気はどんどん広がっています。
普通、気功の最後の収功(しゅうこう)で、広がった気を体の中心(丹田)に戻すのですが、
ボーっとした状態では収功が出来ず、気は広がったままで、自分の体は一種、剥き出しの状態になっています。
だから、外界の刺激に耐えられず、苦しむことになります。
体がそんな状態だから、自分の心も守ることが出来なくなります。
偏差に陥った当時の私は、ほんの少し触れるだけでも、「ガラガラガッシャーン」と音を立てて崩れる、繊細なガラスのような心になってしまいました。
そして、同じ偏差にかかった友人は、「山に籠って修行がしたい」と言い出しました。
山の中・・・自然の中では、外界からの刺激を受けることがない為、体は楽になります。
心も平和でおだやかでいられます。
なので、この言葉を言う人は、偏差にかかっていると考えて間違いないと思います。
でもほとんどの人は、山に籠って修行できないわけですから、どうするかと言いますと、気功の先生になることで、自分を楽にしようという方向へと流れる人が多かったのでした。
次は、このような状態で日常を過ごすことになって、何が起きたのか。
とても恐い話をすることになります。
『気感のない気功は気功ではない』 と言われているにも関わらず、
会員さん、生徒さんに、気感が出てこないことが問題でした。
どうしたら、気がわかるようになるのか。
それで、ある人が1つのスタイルを考えだしたのです。
(このある人というのが、某NPO法人の代表であり、講師として気功を教えていました)
それは、言葉で人を誘導し、「体をゆるめる」という方法でした。
言葉で誘導されて体がゆるんでしまった私はどういう状態になってしまったのかといいますと、
それに近いものが、朝起きて、まだボーっとしている時の状態です。
気功の要は6つあります。
放鬆(ファンソン)-入静(にゅうせい)-定力(じょうりき)-虚-空-無 です。
そして、気功の入口となる放鬆(ファンソン)は、人の誘導でなされるものではなくて、自ら構築していかなければいけないものだったのです。
その某NPO法人の気功の講座には、多くの気功の先生が参加していました。
そして、誘導で体がゆるめられるという体験をして、その心地良さを味わって、私がいつも通っていた気功の先生は、この指導法を取り入れたのでした。
私はこの方法を、半催眠誘導と名付けましたが、この方法でゆるめられると、
気功の時間が終わっても、元の体の状態に戻らないのです。
また、気功の先生も、会員さんの様子をよく見ずに帰してしまうのです。
会員さんは、気功の時間、自分の心と体を気功の先生に預けています。
しかし、指導する側にその意識がないこと、責任を感じていないことが大きな問題でした。
ボーっとした状態で、日常の中に返ることがどれだけ危険かを、私の先生は知らないようでした。
そして、それが何度も何度も繰り返されることによって、体が元に戻らなくなりました。
私たちの体には2つの気があります。
営気(えいき)といって、体の中を流れる気と、
衛気(えき)といって、人体と環境の間にあって、外界からの衝撃を受け止めるクッションの役割をしている気です。こちらは、普通 「オーラ」 と呼ばれています。
気功をすることで、自分の衛気はどんどん広がっています。
普通、気功の最後の収功(しゅうこう)で、広がった気を体の中心(丹田)に戻すのですが、
ボーっとした状態では収功が出来ず、気は広がったままで、自分の体は一種、剥き出しの状態になっています。
だから、外界の刺激に耐えられず、苦しむことになります。
体がそんな状態だから、自分の心も守ることが出来なくなります。
偏差に陥った当時の私は、ほんの少し触れるだけでも、「ガラガラガッシャーン」と音を立てて崩れる、繊細なガラスのような心になってしまいました。
そして、同じ偏差にかかった友人は、「山に籠って修行がしたい」と言い出しました。
山の中・・・自然の中では、外界からの刺激を受けることがない為、体は楽になります。
心も平和でおだやかでいられます。
なので、この言葉を言う人は、偏差にかかっていると考えて間違いないと思います。
でもほとんどの人は、山に籠って修行できないわけですから、どうするかと言いますと、気功の先生になることで、自分を楽にしようという方向へと流れる人が多かったのでした。
次は、このような状態で日常を過ごすことになって、何が起きたのか。
とても恐い話をすることになります。
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最終更新日 : 2022-12-23