『鏡の法則』ではなくて、『鏡の世界』のお話です。
ホテルの配膳は、ビュッフェタイプのレストランから始まり、その後、和宴会の仕事に就きました。
全国でも有名な和宴会専門のホテルが今月末で閉館するという時に、
私はそのホテルで、和宴会の基礎を教わりました。
2013年2月に、自宅から徒歩15分ぐらいのところにあるホテルの和宴会をしばらく続けた後、同じホテル内にある和食レストランのホールで働かせてもらうことが出来ました。
同じホテルでも上に立つ人(黒服)の意識が違うと、働きやすさが全然違いました。
和宴会の黒服は、配膳歴15年というベテランさんを、皆の前で吊るしあげたりして、
私も含め、誰もが和宴会に入りたがらなかったのです。
でも和食レストランの方では、黒服が配膳人の教育係となって、教育されていました。
一度でもそれを体験した人は、皆、こちらのレストランでの勤務を希望されました。
私もその1人でした。
ホテルという業界は、キッチンとサービスの2大部門に分かれます。
特に料理を作る料理人(シェフ)は相当な修行を積んだ方です。
黒服(スーパーバイザー)の中には、勉強され資格をたくさん持っている方もいます。
そういった方の動きは、洗練されていて見ているだけでカッコいいと思います。
そのように研ぎ澄まされ、洗練された場所は、鏡の世界でした。
私が料理を出卓するその所作・・・器を持っている手に、器の角度に、
着物のそでを押さえるその手に、
全ての所作に、自分の心の癖(観念)が丸写しで観えるのでした。
鏡に映っていたのは、私の観念「何でも適当にいい加減にする」心の癖でした。
そこに先輩の配膳人から、ぐさっと胸にささる一言が突き刺さりました。
「あんたはなぁ、下膳の仕方が中途半端やねん!」
自分の観念を自分が見て怖くなっているところに、先輩の一言。
また、私が変な所作をすると、すぐ遠くから黒服が手で「こちらに来なさい」という合図がありました。
黒服のところに行くと、胸をえぐられるようなキツイことを言われました。
でも、上記の先輩の言葉、黒服の言葉を聞いた時、
私は、「本当にそうだ」と認めました。
そして、それを指摘して貰ったことを、ありがたく思いました。
スタジオ指導者の時、原理で整理されている時間は、拷問を受けている時間でした。
だから、指摘されて「本当にそうだ」と認めることも、「ありがたい」と思うことも一度もなかったのです。
(古い?韓国の先生のやり方は、日本人には合わないと思うようになったわけです)
黒服や先輩方のキツイ言葉の中には、厳しさと同時に優しさがありました。
だから、皆、自分を教育してくれるこのレストランで働きたがったのでした。
次は、私がどのような方法で、自分の観念をそぎ落したかという告白になります。
しかし、このレストランでの体験によってわかることがあります。
人は、本当に自分を教育してくれる(=成長させてくれる)人のところに行きたいと思うということです。
私が10年、関わることになったヨガの世界はどうだったでしょうか。
会員さんがスタジオに来られる理由は、院長先生が愛(純粋な愛ではない情愛)を与えてくれるからでした。
純粋な愛を与えることが出来ていたなら、会員さんもいつか自立し、自分が愛を与える人になっていけたと思います。
純粋な愛でなかったから、いつまでも「愛が欲しい、愛が欲しい」というエネルギーバンパイアから抜け出すことが出来なかったのではないかと思うのです。
ホテルの配膳は、ビュッフェタイプのレストランから始まり、その後、和宴会の仕事に就きました。
全国でも有名な和宴会専門のホテルが今月末で閉館するという時に、
私はそのホテルで、和宴会の基礎を教わりました。
2013年2月に、自宅から徒歩15分ぐらいのところにあるホテルの和宴会をしばらく続けた後、同じホテル内にある和食レストランのホールで働かせてもらうことが出来ました。
同じホテルでも上に立つ人(黒服)の意識が違うと、働きやすさが全然違いました。
和宴会の黒服は、配膳歴15年というベテランさんを、皆の前で吊るしあげたりして、
私も含め、誰もが和宴会に入りたがらなかったのです。
でも和食レストランの方では、黒服が配膳人の教育係となって、教育されていました。
一度でもそれを体験した人は、皆、こちらのレストランでの勤務を希望されました。
私もその1人でした。
ホテルという業界は、キッチンとサービスの2大部門に分かれます。
特に料理を作る料理人(シェフ)は相当な修行を積んだ方です。
黒服(スーパーバイザー)の中には、勉強され資格をたくさん持っている方もいます。
そういった方の動きは、洗練されていて見ているだけでカッコいいと思います。
そのように研ぎ澄まされ、洗練された場所は、鏡の世界でした。
私が料理を出卓するその所作・・・器を持っている手に、器の角度に、
着物のそでを押さえるその手に、
全ての所作に、自分の心の癖(観念)が丸写しで観えるのでした。
鏡に映っていたのは、私の観念「何でも適当にいい加減にする」心の癖でした。
そこに先輩の配膳人から、ぐさっと胸にささる一言が突き刺さりました。
「あんたはなぁ、下膳の仕方が中途半端やねん!」
自分の観念を自分が見て怖くなっているところに、先輩の一言。
また、私が変な所作をすると、すぐ遠くから黒服が手で「こちらに来なさい」という合図がありました。
黒服のところに行くと、胸をえぐられるようなキツイことを言われました。
でも、上記の先輩の言葉、黒服の言葉を聞いた時、
私は、「本当にそうだ」と認めました。
そして、それを指摘して貰ったことを、ありがたく思いました。
スタジオ指導者の時、原理で整理されている時間は、拷問を受けている時間でした。
だから、指摘されて「本当にそうだ」と認めることも、「ありがたい」と思うことも一度もなかったのです。
(古い?韓国の先生のやり方は、日本人には合わないと思うようになったわけです)
黒服や先輩方のキツイ言葉の中には、厳しさと同時に優しさがありました。
だから、皆、自分を教育してくれるこのレストランで働きたがったのでした。
次は、私がどのような方法で、自分の観念をそぎ落したかという告白になります。
しかし、このレストランでの体験によってわかることがあります。
人は、本当に自分を教育してくれる(=成長させてくれる)人のところに行きたいと思うということです。
私が10年、関わることになったヨガの世界はどうだったでしょうか。
会員さんがスタジオに来られる理由は、院長先生が愛(純粋な愛ではない情愛)を与えてくれるからでした。
純粋な愛を与えることが出来ていたなら、会員さんもいつか自立し、自分が愛を与える人になっていけたと思います。
純粋な愛でなかったから、いつまでも「愛が欲しい、愛が欲しい」というエネルギーバンパイアから抜け出すことが出来なかったのではないかと思うのです。
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最終更新日 : 2023-04-04